沈黙を選ぶ権利
―すー…。
鉛筆を走らせる音が途切れたと同時に、規則正しい寝息が聞こえてきた。
この女が俺の家に上がるようになったのはいつからだったか。
意外にも有能だったコイツが、使い物にならない主務に代わって他チームの情報収集、分析その他一切を担う
ようになり、そのために俺に家にある資料を使わせるようになった。
その際に俺の食生活を知って、でかい買い物袋を引っ提げてくるようになったのはそう前の話でもない。
必要な資料をまとめ一通りの仕事を終えると、当然のように台所に陣取った奴は、殆ど使われた形跡のない
無用の長物だったそれに向かい、
「ヒル魔くんにはこんな立派なシンクも宝の持ち腐れよね」
なんて言いながら食事を作る。
言って聞くような奴じゃないことは百も承知だし、事実その議論はし尽くした。
説得し損なったと言ったほうが正しいか。この程度のことに実力行使も馬鹿馬鹿しい。
今更もう止めるのも面倒でしたいようにさせてはいるが、嬉々として台所に立つ奴の後姿を見ていると、
てめえは何しにここに来てんだと問い質したくなる。
最初の頃は出てきた料理に評価を下す間もなく、「遅くなると困るから」と早々に帰宅したものだった。
だが、その数日後に来た時に片付けられていない食器を見て呆れた奴は盛大に文句を言い、
言っても無駄ということに気づくと俺が食い終わるのを待つようになった。
砂糖の多さに辟易した料理も、最近じゃようやくまともな味付けに変わった。
目線を少しあげ、時計を見る。
飯はとっくに食い終わっている。
もうすぐコイツのいつもの帰宅時間が過ぎる。
決して送って欲しいとは言わない女が一人で帰るにはぎりぎりの時間。
ゆっくり上下する肩が、深い眠りであることを告げている。
もう一度時計を見る。
ここで起こせば、寝ていたことを顔を赤くして謝罪し、いつものようにここを後にするだろう。
いつもの時間からは少し遅れるだろうが律儀に一人で帰るのだろう。
起こさなければどうなるか。
半分隠れた寝顔を眺めながらそんな考えが頭をもたげる。
このまま成り行きに任せてみるのもいいだろう。
こいつはただ眠ってしまっただけ。
俺は起こさなかっただけ。
悪気なんざない。そうだろう?
この俺が安眠妨害もしないなんてなんて優しさ。
この女が目を覚ましたときにどうするのか、寝てしまったことに驚いて、起こさなかったことを顔を真っ赤にして責めるだろう。
それから…。
その先はどう反応するか。
秒針は刻一刻と時を刻む。
さあ今は安らかに眠れ。
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