「泣いてんじゃねえよ」
「…泣いてないわよ」
「………」
「………………。………嘘。ちょっとだけ」

正直、止める間も堪える間もなかった。この男の前だというのに。 それでもあんな薄布一枚でもその視線を遮断できるものと知って、自然と堰を切るように溢れてしまったそれを流れるに任せてしまった。
布一枚分の隔たり。 それは張り詰めた緊張感の唯一の緩衝材だった。
であると同時にそれにより、果たして幸か不幸か、彼との境もいつもとは違う形に変容していたのかもしれない。
濡れた頬も緩んだ涙腺も、今の彼には見えるわけでは無いことを知っている。 声だってちっとも震えていなかった。空気だって。 それでも言い当てたこの男は、その理由を知っているのだろうか。

「ちったあ根性見せろよ」
「ヒル魔くんといるとどれだけあっても足りないような気がしてくる」

これは、皮肉ではなく感想だ。率直な。
そもそも根気がなければこの男にはつきあえない。
根本に違いのある私たちは日々互いの溝を埋めるには足らずとも、それ以上に深めぬように根気が要るのだ。

相変わらず視線は合わない。 視線を合わせない会話なんて日常茶飯事だが、今は視線を遮蔽するものがある。 それは私から彼へは勿論のこと、彼から私へ向かう視線も塞ぐものだ。
けれどそれは私と違い、彼にとっては意図するものではない遮断。 眼を開けた先に掛かる布は瞼を開けた先の視界を閉ざす。 そこで彼は何を見ているのか。 私には知りようも無いことを思う。
瞼の代わりに、それは彼の目を現実から遮断しえるのだろうか。
それとも起きてこそ夢に生きるこの男には、瞼の裏で見る夢など、文字通りの悪夢でしかないのだろうか。

私はもう泣いてはいなかった。 あっという間に流れた水は止まって、今は僅かに濡れて乾いた頬だけが名残だった。 そして涙ではなく、言葉に詰まって天井を仰いだ。あまり高くない場所に少しくすんだ白さが目に映る。

泣いた理由は本当は定かじゃない。盤戸戦のときと同じようで、また違うものでもある。
(でも、あなたじゃない)
薄い膜のような瞼を閉じて目に焼き付いている情景を反芻する。
泣いた理由は彼にない。それを知っているのだろうか。

「…セナに出来ると思ったの?」

それには答えず彼は笑った。
顔の半分を白い布に隠したまま。

「目の前で破り捨てた挙句に後悔してないとかほざいといて、ご丁寧に拾い集めてるたあどういう了見だ」

饒舌さに、少しの安堵と微かな不安を覚えた。 たぶん沈黙がこの空間にあったところでおそらくきっと私が有するものの比率は変わらない。 今ここに何があろうと私は同様の思いを抱くだろう。
自分の身勝手さを僅かながらに感じる。

「だって捨てるわけにもいかないじゃない」

こんな機密事項、他の誰の目に触れても困るものだわ。 言って、継ぎ目をテープで繋がれた紙に目を落とす。 どんなに丁寧に貼り直しても元のようには戻らない。 すっかりくたびれてしまった紙の上の筆跡を辿る。
確かに一度、私は破り捨てた。この手で。彼の目の前で。
でも、

「…それに、私は貴方の信用まで、破って捨てたわけじゃないのよ」

白い布は変わらず視線を遮断してそこに在るが、私を拒絶をしているようではなかった。
それだってもしかしたら私の願望なのかもしれないな、と思って少し笑った。

「でも一度は貴方の指令を破った以上、マネージャー失格っていうのは…甘んじるつもり」

謝罪は出来ないが、非は非だ。私は全ての重圧を負った男の意志を、一度、この手にかけたのだ。それはどうあれ事実だ。彼は決して間違っていなかった。 けれど黙って肯くことがあの時の私に求められていたことであって、たとえそれが正しかったにせよ、私にはきっと出来ないことだ。マネージャーとしての選択を誤ったのかもしれない。私も、私を選んだ彼も。 そんな私の殊勝かつ一方的な言い分は彼の耳にはどう届いたのか。 そこに少しでも私なりの誠意を汲み取ってくれればそれでいい。 そしてそれに返ってきた答えは、「まあ保留にしといてやる」。
許されたのか許されていないのか。それでも彼らしい言葉に苦笑して、小さく息を吐いた。
そうしてくたびれた紙に書かれた文字をもう一度追う。
ゆっくりと。

『代わりのクォーターバックは―――』

彼は、セナが立つと思ったんだろうか。自分が消えたその後に。
迫り来る全ての重圧を背負えるだけの覚悟があると思ったんだろうか。
自分が去った後のフィールドで、セナになら、それが出来ると思ったんだろうか。

あの一瞬の光景がフラッシュバックする。 一瞬にして塗り替えられた会場を包む重苦しい空気。 それはまるで肌を刺すように、一瞬頭をよぎった絶望感を更に刻み付けるように後押しした。
思い出した情景に微かに手が震えるのを感じて、布一枚分の隔たりに頼って息を殺す。
嫌な汗の感触を振り切ろうとあるはずのない視線から逃れるように、知らず知らずに顔を伏せた。

…私に、覚悟はあると思っていたんだろうか。
フィールドで空を仰いでいるならまだしも、こんな四方を囲まれた狭い場所で天井を仰ぐ彼を見る覚悟が。
フィールドに立つことすらままならなくなった男をこの目にして、それでもまだ勝機があることを疑わない覚悟が。


「…務まる務まらねえじゃねえ。やるかやらねえかだ」
「……それって、…セナのこと…?」

先程の問いの答えかと顔を上げた先で息を呑んだ。 確信的に含みを持ったその言葉と目。
いつの間にか彼を覆っていた白い布は消え失せて、強く意志を有して二つの目が私を射る。

「負け犬にしてえのかよ」

皮肉ぶった茶化すような口調と表情が、布一枚分の隔たりを無くし張り詰めた緊張感を色濃くさせる。
見据える視線は揺らがない。
それが指すのは一体誰のことだ。
………そんなこと、



「テーピングだ」

止める間もなく左腕一つで起き上がる。 左腕一つの彼だというのに、私にはまるで止められそうもない。これは確信だ。 どんな言葉なら止められる?それに返る答えは無い。
ベッドが金属音を立てて揺れた。私は傍のパイプ椅子に腰掛けたまま動かない。

「言ったろ、根性見せろよ」

どうしてこうゆう二択を迫るのか。
今度はどちらを選んだらマネージャー失格だろうか。
何にしたってマネージャー失格じゃないか。彼を信じたところで、…彼を止めたところで。
まるで選択の余地が無いかのように言うが、状況と天秤にかけて見合うだけの現状が今目の前に在る。
自分の怪我だというのに。自分の怪我だから、だとでもいうのか。 止めても止めなくても彼は止まらない。
だけど止めなければどうなるかなんて火を見るより明らかだ。 勿論、たとえ止められたとしてもこの試合は。


どうせ遅かれ早かれ手放す場所だ。


返す言葉も無いままに逡巡と葛藤を綯い交ぜにした目で右腕に視線を這わせる私に、彼は事も無げに言った。
それは何に対する答えで、それはどんな意味を持った言葉なのか。
彼の中では言葉以上でも以下のことでもないことがわかるから、問えない。聞きたくもない。
さも当然のことのように放たれた言葉は、軽口にも思えずさりとて重みがあるものとも思えない。
思えない分、深読みをせずにはいられない。
彼の目がどれだけ先を見ているのかを、思わずにはいられない。
いっそ苦々しげに吐き出したものなら、まだ私の言葉の入る余地も、あったのかもしれない。

ただの事実だ。そう言い聞かすように自分の中で繰り返す。
そう、……ただ、この男の口から出たというだけの。

握り締めた手の中で例の紙がくしゃくしゃと皺を作った。


ずるい、と思う。勝手だと思うが、思わずにいられなかった。
私の感情や気持ちなんかを知ってか知らずか、否、知っていようと知るまいと彼には何の関係もなければ興味も無いに違いなくて、私一人が自分の感情や気持ちと彼の思考とか感情に勝手に振り回されるばっかりだ。
そんなことをしたところで何が救われるわけでも報われるわけでもなく、ただやり場の無いものを自分の中に溜め込むだけだった。
そのことを解って欲しいとは思わない。


でも、解りたいと思うのだ。




今すぐ手を握って言ってやりたいことは山ほどあったけど、私にそれが許されているとは到底思えず、テーピング用のテープを手に固く握ってそのままじっと、起き上がるときにさえピクリとも動かなかった、力無く投げ出されたきりの腕を見ているだけだった。



ロンリー・クルセイダー