「…アイツは別にあんたのことを恨んだりなんかしてねえよ」
「あんたとアイツはこれからだって何も変わったりしねえし」
「アイツは寧ろ…」

「…うん」



大丈夫だから、そういった声は存外しっかりと耳に届いた。
弱々しくもなく、震えてもいない。

大丈夫、その言葉は決して嘘ではないのだろう。だが女はこちらを振り向かない。
俺が此処に入ってきてからただの一度も。
つまり、その分だけ確実に傷を負っているのだ。
頑として振り向かない女はここで一人傷を抱えそれを瘡蓋で覆うのだろう。
俺が此処に足を踏み入れなければ、もしかしたら誰にも気付かれないままに。


薄暗い部室の中で電気も付けずに小さく座り込んだ女。
この女にこんな真似をさせる奴は、幸か不幸か今の俺にはたった一人しか思い当たらない。
昨日の今日というなら尚更のこと。

いっそ傷口を晒せばいい。
依然として振り向かない女の肩を引いてこちらを向かせればそれで足りることだった。
痛いと口にも出さずにじっと耐える女を前にそれをすべきかどうかの是非はわからない。
だがこの女の強さと弱さはいろんなものを一緒に覆い隠してしまうだろう、無意識に。
だから痛みなど残らぬように、忘れた頃になって膿が溢れださないように、そうすべきなのだ。
瘡蓋などで覆う前に。


だがいっそ耳を切るような静寂が戻っても俺はただ立ち尽くしていた。
小さくうずくまった後ろ姿を見ながら俺には手を伸ばせなかった。


俺は結局あの件に関して幇助者であると同時に部外者でしかないからか。
罪の意識に苛まれるには足らないし、無責任な言葉で慰めに代えることも叶わない。
それとも俺が、いつまでたってもこの女の強さにも弱さにも本当の意味で触れることが出来ずにいるからなのか。

無理した笑顔で取り繕わせるのだろうことがわかっているだけに。きっと、何を口にしたとしても。
重い静寂を破るだけの何かを、俺は持っていない。


そして背後からその重い静寂を破るように、扉が開かれる音が、した。















++++




あの男ならば、傷痕を後生大事に抱えて瘡蓋で覆うなんてことはさせないに違いない。
言葉を尽くさない辛辣な悪魔は俺より遥かに少ない言葉と行動でもって、
痛がろうが何しようが女が覆った瘡蓋なんか綺麗に剥ぎとって、血も膿も吐き出させてしまうんだろう。

俺には出来ない芸当。 あの女の弱さも、強さも知らない俺には。


街灯も疎らな夜道を一人歩く。
何をしに部室に寄ったんだか、それすら忘れたまま。
いつの間にか薄くかかっていた雲がきれ、濃い闇を背後に白い光を有した月がその姿を見せている。
いつだって遠く、いつだって裏側を見せようとしないその姿は何かを酷く想起させた。




明日、笑っていればいい。傷痕も瘡蓋もないまま。

何せよ、一晩あればそれに足る気がする。
セナといた時間は一晩どころでは覆らないものもままあるだろうが、そこはあの悪魔のこと、どうとでもするのだろう。


それにあの女は強いのだ。
きっと、俺の知る以上に。




目で追う、けれども、

脚は動かなかった