どの部も既に朝練を終えて綺麗に整備しなおされたグラウンドの脇を通る。
向かう先は今しがた出てきたばかりの部室。

今ならばまだ誰かいるだろうと忘れ物に気付き引き返す道すがら、本来ならばとっくに終わらせたはずの高校生活を再び送る自分が、こうして以前と変わらぬままにその風景に馴染んでしまっていることを思う。向かう足取りに感じるささやかな違和感と奇妙な感覚、しかし決して居心地の悪いものじゃない。
特に急ぐ気も起きずに、二月の空気に白い息を吐きながら遠目にも派手な部室に目をやると、その脇で並んで干された洗濯物の隙間、うずくまる影が見える。それが何かと気付く前に、その影の一つが動いた。ちらりと薄目でこちらを見ただけで、関心なさげに欠伸をする。もう一つの影もそれに気付いたのか、こちらを振り向いた。
宙吊りにされたユニフォームの隙間から目が合った。
違いようのない、青。



「どうしたのムサシくん、授業始まっちゃうよ」
もしかしてさぼり?とからかいめいた口調で姉崎は笑った。

「姉崎、は……まずそんなことはないか」
傍らに鞄、そして姉崎の前には我関せずとばかりにどっかりとケルベロスが寝そべっている。
忘れ物だと告げると、なんだ、とまたしても冗談めいた口調が返る。
「私は、洗濯物干してたら意外に時間掛かっちゃって」
「…ああ。しかし随分な量だな」
「ここのところずっと天気悪かったしね」
乾燥機が無いからこればっかりはお天気頼みなんだよね、と空を仰ぐ。
確かに今日は久しぶりに文句の無い快晴だった。そのせいか寒さは余計に厳しい。
「この量だし、それにさっきチョコレートなんて配ったでしょう?おかげで時間ぎりぎりになっちゃった」
「まさか貰えるとは思ってなかったけどな」
「本当は放課後の部活の後の予定だったんだけど、半日も部室に全員分のチョコを置いとく許可が出なかったのよ」
甘い物が嫌いな人だっているのはわかるけどね。その時のやりとりでも思い出すように姉崎は呟いてから、今度ははっと何か気付いたようにこちらを窺うように見上げる。
「もしかして、迷惑だった?」
まさか、と返すと姉崎はため息で答えた。安心したとでも言いたげな青い目はケルベロスの方に戻った。
手袋もはめず外気に晒された白い手はケルベロスの毛並みに沿ってゆっくりと動く。

間違いなくその白い手よりは獣の毛を持つ身体の方が温かいだろうに、まるでその様は自らの体温を分け与えているかのようにも見える。そうやって何かを慈しむときの姉崎の姿は、単純に美しいと思う。それが本能であれ何であれ、その眼差しが注ぐものにはまるで嘘が無い。自分に嘘がなく、また他に対しても嘘が無い。それは容易に見えて難しい。そうして姉崎の強さを思う。
だが悲しいかなその全てを包み込むにたる大きさが、必ずしも全てに通用するわけではない。強さや美しさとは脆さや弱さにも似たそうした悲しみと同時に存在するように思う。「全て」に叶うものがあるとしたら、それは既に傲慢だ。人間は無用なほどに複雑に出来ている。与える側にとっても与えられる側にとっても、同様に。


二月の風が首をかすめて自分の目的を思い出したが、ここで授業だ何だと言い出すのは無粋な気もする。
一歩足を引いて部室に向けようと視線を外す先で、姉崎の鞄の傍らに見覚えのある包みを見つけた。
よくよく見ると既に封が開いている。それに気付くのと姉崎が小さく声を発したのは同時だった。

「…あ、」
「どうした」
「すっかり忘れてたけど、犬にチョコってあげちゃだめなんだよね」

ケルベロスを撫でる手を止め、鞄の傍らの包みをそっと取り上げながら言う。まあ普通の犬ならそうだろうな、と幾分逡巡しながら答える。
大別して犬の枠に入れていいものか、甚だ疑問ではあるが。
「玉葱とかは避けてたんだけど…」
聞けばデスマーチの際に自らそれだけ避けて食材を食ったらしい。味がついてりゃ何でも喰うとは思うが、如何せん犬だ。そこで躊躇いを覚えたのか姉崎は手にした物をケルベロスの鼻先から引っ込める。ケルベロスは鼻を鳴らしながらも、何の動きも見せない。強いて言うなら、目線で姉崎の動きを追ったぐらいだ。これには一瞬面食らう。
「手で餌やってるのか」
「うん?そうだね、おやつなんか時々あげたりしてるけど。でも行儀はいいのよ、ちゃんと待ってるし」
「…そうか」

鼻先で餌を引っ込められて、この程度とは。
ごめんねケルベロス、と毛を撫でる手を、今更だが邪険にすることもなくただ何度か喉を鳴らすように唸って見せるその姿は、普段…本来の獰猛さからすればまさに歯牙無き飼い犬だ。
実際は天と地程にかけ離れているというのに。

「手で餌ってやらない方がいいのかな」
「いや、それは無いだろう」
が、さすがにケルベロス相手なら俺でも多少はためらう。腕ごと喰われるとまではいかないにしろ餌を見たときの瞬発力は計り知れない。今がどうであれ実体は、紛れもなく爪と牙を有した肉食獣だ。


ともあれ、そうしたことも、俺の思惟なんかも姉崎は露知らずにいるからこそ今のこの空気があるのだろう。
マフラー一枚したきりで膝を抱えるように蹲るその背中は寒さのせいかやけに小さく見える。時折吹く朝の冷たい風が茶色の髪を揺らし、その度に華奢な肩を僅かながらに竦ませていた。
(おそらくは、それだけがこの場を去り難い理由ではない)
そして姉崎はまだ立ち上がらない。

「やっぱりクッキーにしておけば良かったかな」

何とはなしに言う姉崎を見て、今引っ込められたものが最初からケルベロスに対してのものではないのかもしれない、と思う。
丁寧に包装されていただろう跡を残して、行き場を失った黒い小さな塊は箱の中できれいに整ったままだ。


「ヒル魔はまだ部室か?」
「あ、うん」
「粘ってみたか」
「!…ううん、一刀両断だったからそこは止めといた」

鼻先で餌を引っ込められたのは、もしかしたらこいつだけじゃないかもしれんな、と苦笑混じりに思う。

「でも良く分かるね」
「ん、まあ勘だ」

スカートの裾に手を掛けながら立ち上がった姉崎はしばし黒い塊を眺めた後その蓋を閉めた。
「明日はケルベロス用にクッキー作ってこなくちゃ」
どうやら恩恵に預かれないのはもはや一人と決まったようだ。

それぞれの性分のせいかそこはしょうがないとはいえ、この噛み合わない歯車には些かの同情を禁じ得ない。


「粘ってみれば違うかもしれんぞ」

お節介が過ぎる、というのは重々分かっているつもりの一言だったが、俺にしても何だかんだで首をつっこんでしまうこの性分は今更どうすることも出来ない。なかなか厄介なものだと思う、性分というものは。


だが、そこまで無理強いするつもりはないのよ、とそこで笑って見せた姉崎はくるりと向きをかえ、蓋を閉めた小さな箱をポケットにしまいこんだ。寒さに上気したであろう頬はマフラーに隠れて見えなかった。
嫌いなものは仕方ないしね、とそう口にして鳴り出した予鈴を追うように姉崎は校舎の方へ意識を向ける。
また、茶色の髪が揺れた。
───解ってたつもりだしね、こうなること。
青い目はもはや部室の方を向いていない。



二月の風は変わらず冷たい。
春の訪れはまだ遥か先、遠いことのように思われる。
俺はといえば、その綺麗に笑って見せた顔を前にもう何かを言うことは出来ず、ただ本当に行き場をなくしてしまったなと、どこか一抹の寂寞さを覚えるだけだった。





風上にて