理解出来る日がくればいいと思ったのだ、あの刹那。








「…あれ?」

さっきまでいたと思ったのに。開けた扉の先に人気はなく、この部室の主の姿はどこにも見えなかった。
本当に、自分勝手で気紛れな男だ。この一年間風紀委員として見て来たつもりだけど、この数日で更にそれは確信に変わった。 今更怒りが湧くわけでもないが、その言動は呆れる程に露骨で分かりやすいのに何を考えているか全く分からない。 今だって栗田くんもセナもさっさと帰してしまって、私一人に雑用を押し付けるだけ押し付けた意図が嫌がらせ以外の何があるのかと勘繰ってしまう。本当に、今更だけど。
とにかく思考回路が一般のそれとは桁外れに並外れて懸け離れていることは確かだった。
とりあえず、そうとりあえず知ることは、悪魔じみた思考を別にすれば彼の中にはアメフトが、それこそ深く根付いていることだけだ。

鍵もかけないで部室を開けるなんて不用心な…とも思ったが、悪魔と称されるヒル魔妖一の領域に好き好んで近寄る人間なんてこの学校にはいないということだろうか。
とはいえそんな悪魔の棲む部活で、(セナを守る為に)好き好んでマネージャーになってしまっている自分みたいな人間もいるわけで。

 ―パソコンもつけっぱなしで…。

鬼の居ぬ間にと覗いてみるが並び立った数字の羅列に目がチカチカする。
完全にアナログ人間な自分にはどこをどう触っていいのか検討もつかない。
その羅列を目で追ってみても、分かったのはどこかの試合のデータだということだけだ。勿論、アメフトの。
あまりにも細かくて、ルールを覚えたばかりの自分にはその数字が何を意味するのかまでは分からない。
彼が洗い出したのだろうか?だとしたら気の遠くなる作業だ。
よくもまあ、と驚きとも感心ともつかぬ気持ちが湧く。

 ―本当に…アメフトに関してだけは……。

数字の羅列をしばし眺め、息を吐く。理解出来る日が来るのだろうか。
この数字の羅列を、そして彼がアメフトに向ける感情の十分の一でも。 それこそ気の遠くなる思いがする。
単純にそれら全部を、理解出来ない、と言って切って捨ててしまうのは簡単だった。 でも、それは酷く憚られる。
本当に、アメフトに関してだけは真摯で真剣で真っ直ぐだった。 それは多分、これからも変わらないんだろうな。だから部活停止処分の申請なんてしなかったし、何より結果的にであっても自分はここにいる。
彼の何を知っているかと言われれば、彼の何を信じているかと言えば、それ以外に無い。 アメフトに生きてると言っても過言じゃないことを。


パソコンの向こう側には数枚の紙が無造作に置かれていた。走り書いたような跡がある。
これもデータの一つなんだろうか? そう手を伸ばしてた拍子にどこかに触れたのか、傍らにあった口の開いていた缶が音を立てて倒れる。慌てて支えようとしたが間に合わず、そのまま机の上を転がり床に落ちた。
有難いことに既に空だったらしく、床の上で小気味良い音を立てるだけで済んだようだった。
もしこれに中身が少しでも残っていたら、恐らく見るも無残な惨状になっていたに違いない。 放り出されていた紙面のデータは悉くやられただろうし、もしかしたらパソコンも被害を被ったかもしれない。考えるだに恐ろしいことだと、胸を撫で下ろして転がる缶を拾い上げる。片付けたばかりの部室には塵一つなかった。
ああ缶珈琲なんか飲むんだなあ。今更みたいにそんなことに気付いて手の中の缶をしげしげと眺める。
そりゃあ飲むだろうけど。でも、飲むんだ。あんな人外みたいな顔と性格で。 そうして改めて気付く。
これでまた一つ、あの男について分かってしまった。

アメフト部にいればこうやって、一つ一つあの男のことが分かっていくんだろうか。
言い様もないくらい複雑な気持ちで、無糖と書かれた缶の表面をなぞりながら思う。 砂糖もミルクも入らない珈琲の味は正直私には分からない。パソコンの使い方も分からない。こんなところでも分からないことだらけだけど、分からないって思いながらも、こうして一つずつ。 思って、また気が遠くなった。
アメフトに関してだけは真摯で真剣で真っ直ぐで。それ以上の彼の何かが分かる日が来るんだろうか。風紀委員として対峙してるだけじゃ分からなかった、何かが。 …そんなことを考えるのは不毛だろうか。分かった先にあるのが常軌を逸した思考回路だとか唯我独尊にも程がある行動原理じゃやりきれないな。不毛だ。
不毛ついでに、出来ればもう少し紳士的になってくれればいいのに。大事なセナを預けているんだから。


セナ。私の大事なセナ。


あの子がアメフトの何処に惹かれたのか、それもまた、私にはまだ分からなかった。
虚弱で貧弱で脆弱で最弱なセナがどうしてアメフトなんて危ないスポーツに惹かれたんだろう。
初めて見た試合を思い出す。広いフィールドを駆け抜ける小さな選手が浮かぶ。誰も追い縋れないスピード。
小さな身体で敵に向かっていくあの勇敢な姿に、セナは自分を重ねたんだろうか?
途中から試合を観戦しただけの私でも、アイシールドくんが駆け抜けた瞬間の、肌がチリチリする緊張感は忘れられないでいる。それを間近で見て感じたセナはもっともっと強い感情を覚えたんだろう。 栗田くんやヒル魔くんに至っては、もう離れられないくらいになってしまっているんだろうか。

たった二人だけの練習風景が瞼に浮かんだ。
たった二人になっても止められない何かがあるんだろう。
たった一人でも、勝つ為に。
画面に並ぶ数字の重さが、少し分かる気がした。



まだ4人限りのアメフト部に、彼は何を思っているんだろうか。 考えてることなんてずっと分からないかもしれない。 でも、悪魔も珈琲を飲む。今はそれが分かれば十分だった。珈琲を淹れよう。
缶珈琲を手に戻った彼が、珈琲カップを前に舌打ちの一つでもすれば、私にはもう十分過ぎる。

無糖の珈琲の味が分かる日が来なくとも、彼の考えてることなんて分からなくても。
並んだ数字の意味が、セナや栗田くんやヒル魔くんを虜にするアメフトの凄さが、私にも分かる日が来ればいい。
それは、そう遠くはない気がした。





生まれたばかりの夢を見る